「ラブライブ!サンシャイン!!農協ポスター」何が問題か?ラブライブ!ファンが考える

ここ数日、ツイッターを騒がせているのが、『ラブライブ!サンシャイン!!』の高海千歌(cv.伊波杏樹)が登場する農協のポスターである。

毎度のことながら、「フェミニスト」vs「反フェミニスト」の仁義なき戦いの様相を呈しているが、どうにも会話が噛み合っていない部分が多いと感じる部分がある。本記事では、双方の主張をまとめつつ、なぜ「炎上」したのか、また農協の対応は正しかったのか、私の思うところをまとめる。初めに断っておくが、私は高校時代に『ラブライブ!サンシャイン!!』や『ラブライブ!』の楽曲にハマっていた。受験勉強もラブライブ!の楽曲とともに乗り越えたなどのさまざまな経緯から、特別な思い入れのある作品である。以下は一人のラブライブ!ファンの主張である。

 

当該ポスターを見た「フェミニスト」たちの主な主張は

  • スカートの皺が不自然である
  • スカートが不自然に短い
  • 公共性の高い広告には不適切な表現である

などである。これに対し、「反フェミニスト」たちの主な主張は

  • 「短すぎる」「皺が不自然」などの批判は妄想・言いがかりである
  • フェミニスト」は自分の気に入らない表現を規制しようとしており、「表現の自由」の敵である
  • 嫌なら見なければいい

などである。

 

この問題を考えるにあたって大前提としておくべきことは、当該ポスターは「芸術作品」であり、全ての表現は意図的になされているという事実である。作品内の表現は作者が自由に設定できるため、全ての表現に作者の信念が込められている。作品を提示された人々は、それぞれ作者の意図を想像し、自由に自分なりの解釈を与える。この営みは、「鑑賞」と呼ばれる。

 

この前提に立つと、どちらの側の主張も間違ってはいない。芸術作品に対する「間違った解釈」など存在しないのである。「スカートが短すぎる」「皺が不自然」と言われればそんな気がするし、「妄想だ」「言いがかりだ」という意見を否定することも不可能である。そもそも「鑑賞」とは「妄想」の言いかえであるからだ。

 

どちらの言い分も否定できないという原則を踏まえた上で、私の見解を述べる。当該ポスターは、広告という媒体の性質を鑑み、不適切であると言わざるを得ないという立場を取る。もう一度ポスターの写真を見ていただきたい。

私はシスジェンダー男性であり、かつ女装した経験や「女装したい」といった願望もないため、いわゆる女子高生が一般に着るとされているスカートの制服を着たことはない(この書き方も相当ジェンダーステレオタイプに囚われていることは自覚している)。しかしながら、ポスターの手前にいる伊波杏樹さんのスカートと比べると、明らかに不自然であると分かる。伊波杏樹さんのスカートには、作品に見られる皺は見られないからだ。参考となるツイートを引いておく。

現実世界ではありえない描写がなされているということは、表現者が強い意思を持ってこの描写を選択していると考えるのが妥当である。普通に制服を着た女性を描写するにあたって、スカートの皺は不要な要素であるためだ。「フェミニスト」は、ここに若い女性を性的に消費する意図(意識的であれ、無意識であれ)があるのではないかとしている。

 

ここで、私と「フェミニスト」の主張を補強するため、「メタメッセージ」という社会学の概念を導入する。「メタメッセージ」とは、ある表現や現象が直接意味するものを超え、暗に発信するメッセージを指す。

 

例として、私がトルコ・イスタンブールを旅行した時の経験を紹介する。日本では、道路を渡る歩行者は、大して通行量の多くない道路であっても、律義に信号を守って横断歩道を渡ることが多い(あくまで多いという次元の話である)。それに対してイスタンブールでは、とても通行量の多い道路を、少なくない人が車の間を縫うようにして横断していた。これらの現象は、表層的には「周りの人は信号を守る」「周りの人は信号を守らないどころか横断歩道すら利用しない」以上の情報をもたらさない。それにもかかわらず、イスタンブールを旅行した私と同行者は、現地の方と同様に車の間を縫って通行量の多い道路を横断した。「イスタンブールでは信号や横断歩道はあまり気にせず道路を横断してよい」という「メタメッセージ」を読み取ったためである。

 

農協ポスターの件に話を戻すと、「フェミニスト」や私は、不自然なスカートの皺が誤った「メタメッセージ」を発してしまうと危惧しているのである。「広告」とは、公共性が高い表現物であり、かつ「農協」という組織も公共性が高い。ゆえに、その社会的影響力は小さくない。通行人は拒否する余地を与えられずにポスターを目にすることとなる(このため、いわゆる「いやなら見るな」論法は無効である)。

 

このように主張する方も出てくるだろう。「仮に不自然にスカートの皺が強調されていたとしても、何も問題はない、考えすぎだ」と。このような言説に対しては、私は、このように反論する。「人間には『恥じらいの感情』が存在する」と。公共の場において、身体の性的なパーツが必要以上に強調されて描写されているのを見た人は「恥じらいの感情」を覚えるだろう。これが良いことではないというコンセンサスは得られると考える。

当該ポスターが掲示されることにより、「恥じらいの感情」を覚える人が少なくない表現物が街に貼られるのは当然だという「メタメッセージ」を発することになってしまうのだ。

 

今回の騒動の責任は、一義的に農協にある。一部の「フェミニスト」は、「ラブライブ!」というコンテンツを批判(攻撃?)しているが、これは不適切である。最終的にポスターにGOサインを出したのは農協であるからだ。同時に、「反フェミニスト」にも「ラブライブ!」を応援する動きが見られるが、ポスターの件に限って言えば、農協を応援すべきであろう。

 

私が求めるのは、表現規制ではない。公共性の高い場において、「恥じらいの感情」を催させる表現を掲示するのは慎むべきである、という至ってシンプルな社会的コンセンサスが形成されることである。双方が意地にならず、皆が生きやすい風土を協力して作り上げて行きたいと考えている。自戒を込めて。